14歳の高校生からモデルへ|自分で人生を決めて動かした10代の日々
仕事も育児も自分のチョイスで世界を広げる旅
- 名前
- アンジェラ レイノルズ/ Angela Reynolds
- お仕事
- モデル、ギャラリーペロタン東京ディレクター
- Info
- 取材・文/門倉奈津子 プロフィール写真/HAL KUZUYA
- URL
- アンジェラ レイノルズ Instagram
- URL1
- ギャラリーペロタン Instagram
【仕事も育児も自分のチョイスで世界を広げる旅】
Bright Choiceは、育児に励む女性たちのこれからの生き方・働き方についても今後新たな提案をしていきたいと考えます。出産・育児にあたり、これまでの仕事を一時的にお休みしたり、働き方を変えるということはすでに多くの女性が実践していますが、もう一歩進んで、新しい分野への挑戦や自分自身をバージョンアップさせるような職務経験を積んでいく「セカンドキャリア」の可能性についても、一緒に考えていきませんか?
今回は、10代からモデルとして活躍し、現在はギャラリーペロタンの東京ディレクターとしてアートギャラリーの運営に奔走するアンジェラさんに、独自のキャリアパスを築き上げた過程や、仕事と育児の両立についてお話しを伺いました。アンジェラさんがお話しくださった内容を4回にわたりご紹介します。
◾️14歳でキャリアの第一歩を踏み出す
イギリス人の父と日本人の母のもとに生まれたアンジェラさんは、東京で育ち、幼稚園の途中からインターナショナルスクールに通いました。実は2年飛び級したので、モデルとしての道を歩み始めた14歳の時は、すでに高校生でした。
「モデルのキャリアの背景にあるのが、12歳で母を亡くしたことです。乳がんだったのですが、私が8歳、10歳の時にも入院していて。なので、10歳の頃から炊事洗濯、家のことは私がやっていました。学校は楽しかったけれど、同級生より2歳下というのと、そんな家庭事情もあり、みんなとちょっと違う存在。先生方も当時まだ30代で、親を亡くした経験もないし、『この子にどう触れたらよいかわからない』みたいな感じだったと思います。それで学校という環境とどこか距離感ができて、自分の居場所を探していました」
転機はスカウトされた時に受け取っていた、あるモデル事務所の名刺。当時すでにモデルとして活躍していた兄・ユアンさんの勧めもあり、ある日、その事務所に連絡をとったことからすべてが始まりました。
「私はファッション雑誌なんて見たことなかったし、全然オシャレじゃなかった。とにかく母を亡くしてからは学業に没頭していて、成績もオール5。たぶん自分の感情と向き合えなくて勉強やスポーツや夜遊びに没頭していて、ファッションというものに無縁だったんですよね。
モデルの仕事がなんなのかも知らないのに、ある日、学校帰りに事務所に面接を受けに行きました。『どんな雑誌で仕事がしたいの?』と聞かれたけど全然わからなくて。1日時間をもらって、いろいろな雑誌を読み比べて、出てみたい雑誌や惹かれた写真のカメラマンをリストアップして、翌日また事務所に伺って...。そこから始まって、そのうち毎週末と放課後に撮影の仕事が入るようになりました。ちょうどハーフモデルとしてデビューするタイミングも良かったと思うんですよね。『Olive』から始まり、1年経つ頃には『SPUR』や『ELLE JAPON』などでもお仕事をするようになり、たちまち自分の世界が、私の事情を知らない大人たちとの世界ができて、すごく楽しかったですね」
◾️禁止せずに見守った父親の存在
まだ10代の娘がモデルとして大人たちのなかで働くとなると、一般的には心配するのが親心。ですがアンジェラさんのお父さまはアンジェラさんを止めることはありませんでした。
「医学関係の仕事をしていた父は、私がゆくゆくはケンブリッジとかオックスフォードに行くと思っていたので、私がモデルの世界に入ると言った時にはびっくりしていましたね。賛成はしていませんでした。でもダメだとも言えなかったのかも。家のことも私が全部していたし、学校の成績はこれ以上なりようがないくらい良かったですし。そして、自ら私たちに、自分の道は自分で切り拓くもの、と教育していたので。そして、私はまだ14歳でしたが、周囲の同級生は16歳だったから気持ち的にはもう高校生。だから『お父さんにダメと言われたって私はやる』って思っていました」
◾️オープンマインドな大人たちから受けた影響
「父は学者肌でコンサバティブな部分もあったのですが、母も父も70年代に東洋思想や代替医療、スピリチュアルなものを深掘りしていました。今思うと自分の道は日本ではイレギュラーだったかもしれません。インター校の長い夏休みは毎年家族で海外に行っていましたが、やっぱりうちの親はヒッピーだったんだなって思います。オレゴン州のアシュラム(編集部注:共同生活をしながらヨガを学ぶ施設)まで家族でヒッチハイクしたり、ギリシャでもロバに乗って人里離れたところに行ったり...。
私が子どもの頃に住んでいた大きなアメリカンハウスでは、スパイラルペインティングやヨガ、フェルデンクライスなどの様々なワークショップを海外からゲスト講師を呼んで開催していました。私が2、3歳の頃からそういう環境にいたから、すごくオープンマインドな大人たちがいつも周りにいたんですよね。自分が学校や社会で見ている世界よりも、もっと広いところで生活しているそんな大人たちが周りにいて。自分で自分の人生を決めて動いていい、というのは家庭からも彼らからも学んでいたので、自分のチョイスに関しては親に頼らず自分で考えて決めるべきとずっと思っていました」
◾️モデル業が広げてくれた世界
モデルとして着実にキャリアを積み上げていったアンジェラさん。表からは華やかな面だけが強調されがちですが、実は奥深い仕事でもありました。
「モデル業は楽しかったですね。今も楽しいんですけど、90年代当時はまだフィルムで撮影していて、コマーシャルワークでも実験的なことにも挑んでいました。フィルムの時代は、万全の体制で撮影に臨んで、現場で完璧に仕上げないともう修正が効かない時代。だからみんな可能な限り勉強してきてるし、私もその場でリファレンスがどこから来ているか知らなければ、現場で調べようもないんです。だからもっと勉強しようと思ったし、勉強すればするほどその現場を理解でき、会話も楽しめて、そういう現場がそのころはある意味、生きがいになっていました。皆、貪欲な時代でした。
特に私が好きだったのは、作品撮りに近いくらい濃厚な表現のもの。ミュージシャンが楽器を持って即興で音に乗るセッションのように、その場のトーンやリズムを感じ取って、自分の体を使ってそこに乗っていくというプロセス。自分の中でどう自分の感情と遊んでみるか、その世界観に合う色に自分の内面を染めてみて、ときには涙をこぼしたりとか、そういうことをやっていました。
あとはよく神保町の古本屋に座り込んで、昔の『ハーパーズ・バザー』や『ヴォーグ』を見ながら自分なりにファッション史の勉強もしていました。20年代〜40年代でも、今でも壮烈に感じるクリエイションをしている人たちがいて、女性に対するメッセージ性の強い雑誌があることに衝撃を受けました。50・60年代の雑誌は戦後、フェミニズムの初期段階ですが、文章が素晴らしかったし、グラフィックデザインも革新的で。今でもその頃の資料はインスピレーションになります。そうしたものを見るにつれ、モデルも深みのある、プライドを持てる仕事だなと思いましたね」
◾️突然の方向転換
順風満帆だったモデル業ですが、18歳頃になると、自分の伝えたいメッセージが同世代のファンにちゃんと伝わっていないというジレンマや業界的なものに対する疑問を感じるようになります。
それと同時期に、憧れの車を手に入れました。
「60年代の車が大好き。両親は車に乗っていなかったのもあり、以前から憧れを抱いていました。どうせ大金を使うなら自分が一番好きなものを、ということでいろいろ調べて、最終的には18歳で67年製のマスタングというアメ車を買ったんです。それに乗って国際基督教大学に通っていました。で、自分で修理できないとダメだなと思って、もうその頃にはモデルの仕事は一切入れていなかったので、ガソリンスタンドのメカニック部門で働き始めました。夜番もこなしましたよ。周りはみんな車が大好きな男の子たちでした。モデル事務所のマネージャーは、ちょうど大きな広告の仕事を終えた直後に私が辞めてしまったのでショックを受けていました」
アンジェラさんは、大学に通いながらガソリンスタンドに約2年半勤務した後、さらに大きく環境を変えるためにロンドンに移住します。
<第2回につづく>
<連載概要>
【仕事も育児も自分のチョイスで世界を広げる旅】
第1回:14歳の高校生からモデルへ|自分で人生を決めて動かした10代の日々(本記事)
第2回:ゴッドマザーの影響とヨガで癒しと意義を見つけたロンドン時代
第3回:ジャーナリストから未知のアート界に飛び込み新たなキャリアを邁進