遊びも景色も、おいしいも。すべては散歩の記憶から

子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て
- 名前
- 三浦瑠麗 / Lully Miura
- 家族
- 3人(10歳女の子)
- 所在地
- 東京都
- お仕事
- 国際政治学者
- URL
- 三浦瑠麗(@lullymiura) Instagram
【子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て】
散歩の記憶は、「道」とつながっている。当たり前のようなことだけれども、あらためてそう思うのは、わたしたちが大きな自然の中でごく限られた向きからしか、その賜物を見ることができないからです。遠景に雄大な姿を現す山も、登っていくには道を歩いていくしかない。分け入れど分け入れどそこには木や石が続いていて、頂上に着くまで、よいしょと、ひとつひとつ難所を乗り越える、その体験の連続でしかないのです。
街もそうですね。高層ビルのてっぺんの展望台から見下ろすメガシティは、建物が限りなく広がっている。そして目を凝らすと、マンションと思しき建物の屋上にあるちいさな菜園や、デッキチェアを出してくつろいでいる人までが見えて、楽しい。その、こちゃこちゃとしたすべての区画に人々の生活が詰まっているのが見渡せるのだけれど、エレベーターを降りていけば、わたしもせっせと街路を歩いて角を曲がっていくひとりの散歩者になります。
そのかわり、わたしたちが歩くその道には、目に映る風景にちょっとした喜びが詰まっていて、いつもの散歩道に、心地よい変化をもたらしてくれます。季節の変わり目に感じる風の匂い。木々が芽吹き、葉っぱが青々とするまでの細やかな変化。道端で前足を丹念に舐めている猫。もらったばかりの風船を持って通り過ぎる子ども。お蕎麦屋さんの店先に掲げられた、「新そば」の文字。今年はじめて見る、「かき氷」ののぼり。いましがた天気予報で説明を聴いたばかりの、夏のカミナリ雲。娘が目ざとく見つけて拾っていこうとする、枝や木の実。
「そんな長い枝は、お店の中までは持っていけないよ」と言いながらも、たいていは本人が飽きるまで持たせてやります。納得するまで楽しんだら、結局は大きすぎるおみやげに自分自身へきえきとして、やっぱりちょっと置いて帰ろうかな、と言い出すのですから。
きのうの夕方は、仕事のあと猫をオフィスから連れ帰ってマンションに置きに行き、さあいつもの寿司屋に行こうと出かけた途中に、近所の子どもが輪飾りと短冊の工作を手にもって母親に寄っかかり甘えていたので、ああ、もうすぐ七夕だなとわかったのです。10歳になった娘はもう願い事なんてしないのかしらと内心思いながら、自分は中学の途中くらいまで熱心に願い事を書き続けていたのを思い出して、あとで短冊を切っておこう、と決めました。そうやって思いつくことも、散歩の途中で拾って帰る「おみやげ」みたいなもの。
「おみやげ」に気づくには、物や人が多すぎると大変。だからわたしは、ショッピングコンプレックスのようなところにはあまりしょっちゅう行きません。百貨店もくまなく歩くと疲れてしまうから、あらかじめ寄る店を2、3軒決めておいて、滞在時間は食事をしない場合はほぼ1時間以内。デパ地下もたまにしか寄りません。商品が豊富にあるのは一見素晴らしく、あれもこれもと思ってしまうのですが、買い過ぎてしまうから。物があんまり増えると、わたしはどうも疲れてしまうのです。
通りを歩いていく最中には、店を横目で見て、今度あれを買っていこうと、確かめて通り過ぎることもできます。歩いて持てる分しか買わないし、たまにスーパーの店先にやってくる中華屋さんの広げる屋台でシュウマイ6個入りを買うだけでうれしい。買い物袋をぶら下げてふらっと立ち寄るカフェやバーなども、散歩の醍醐味です。ただし、一度すてきだったことは、あまりすぐにもう一度味わいに行こうとしないこと。感動は二度目には必ず目減りしてしまうし、散歩の途中の一期一会の体験は、再現不可能な場合が多いのですから。
さて、いつも行くスーパーやレストランの地区からうちへ帰るには、坂を上って行かなければいけません。どの坂を上っていこうか。三つほどの坂から選んで、えっちらおっちらと上る。「お寿司のあとは歩かなきゃね」と言いながら、娘に手を引っ張ってもらって歩きます。道の途中で、「なんかおいしそうな匂いがするよね」と娘。「お店かな、おうちかな」と、わたし。「車の匂いしかしないけど」、と夫は鼻が利かないようす。「ううん、やっぱりするわよ。これは中華そばのスープの香りよねえ」とわたしが言うのだけれど、結局何かよくわからないまま、「今度はあそこの海老つゆそばを食べに行こうね」と、食べ物の話で終わったのでした。街散歩は楽しいですね。
〈三浦瑠麗さん連載〉
子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て