性別をめぐる世界観。女の子らしさは乗り越えられるのか?

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子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

名前
三浦瑠麗 / Lully Miura
家族
3人(10歳女の子)
所在地
東京都
お仕事
国際政治学者
URL
三浦瑠麗(@lullymiura) Instagram

子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

コロナ禍で海外に出られなくなり、そして比較的暇になったのもあり、日本の劇場にオペラを観に定期的にいくようになりました。娘はちいさい頃からバレエをやっていたこともあり、舞台美術が好き。紗のような何枚もの幕とライティングを通じて舞台を暗転させたり浮かび上がらせたりする手法や、場の転換と主人公の象徴的な運命を知らせるように動く舞台装置。決して広くはない舞台に大きな世界観が投影されるのをじっと見ては、ちいさな歓声を上げたり、ため息をついたりしています。

今の時期は背がぐんぐん伸びるので、ドレスがつぎつぎとちいさくなる。そのため、新しく買ってあげても1年しかもたないことも稀ではありません。ちいさくなると、2、3歳下の友だちのお子さんに差し上げるので、長く着つないでもらえます。今回は、そろそろ大人のサイズにしようということになって、ワンピースを買いに行きました。買ったのはミモザ色で白い小花柄の長い丈のワンピースです。袖口にゴムが入って、薄いシフォンがゆったりとしたドレープを作り、腕の長さが気になりません。首周りはつまっていて、上身頃とスカート部分の切り替えには共布でサシェ風の装飾がついている。歩くたびひらひらと揺れる長い丈のスカートに本人はうっとりと大満足でした。

娘のファッションに関する憧れは、多かれ少なかれわたしの趣味を反映しているのでしょう。女の子が生まれたとき、嬉しかったことは確かです。あんなものを着せよう、こんなものを揃えたい...。母親のエゴでもありますね。ただ、ファッションや趣味ならばティーンエイジャーや成人になって親から脱却することもできるでしょう。娘はいずれ自分なりのスタイルを見つけていかなければならないから。すでに娘は反抗期にさしかかっていますが、若い時分の、親に対する仮借なき批判は成長の一段階であり、それに耐えなければいけないのが親のさだめというものです。

ただ、人々により大きな影響を及ぼすのは、性別をめぐる世界観の全体です。もしもわたしが性別をめぐる世界観において大きな影響を与えてしまっている場合、娘がそこから脱却することはできるのだろうか...。オペラがはねた後のワインバーで、「ママ、もう幕間にシャンパン飲んだんだからワインは2杯までよ」と言いながら、妙にしとやかな手つきでノンアルコールのスパークリングワインのグラスを傾けている娘を見つつ、そんなことを考えていました。

わが家では、後始末をきちんとすることを重視しています。食べた後は食洗器に食器を片付けること。寝そべった後にはソファーのクッションを整えてからリビングを離れること。ヘアブラシを使った後は抜け毛を拾っておくこと。生理の下着や水着など菌が繁殖しやすいものはすぐに洗うこと。特にわたしが勤勉だとか几帳面なわけではありません。家にいるときはぐうたらしているのですが、やらなければいけないことを後まわしにしてしまうと、忙しいせいもあって家事がはてしなく溜まっていくことを分かっているから。それに、美しいものが好きならば、家もシンプルに美しくしておくべきだと思うからです。

子どもの部屋の乱雑さをみると、そんなに汚い部屋で綺麗なドレスを着て出かけて何の意味があるの?と、厳しく言うことも。たまに大掃除のように片づけを手伝ってあげることもありますが、自分のことは自分でやることを旨としています。でも、わたしは夫に同じ基準で対することはありません。最近ではだいぶ夫も自分自身の後始末をするようになりましたが、それでも、夫ができていないことをわたしや娘がやることは頻繁にあります。家をきれいにしておきたいというのはわたしの好みであって、夫のこだわりではないから。

でもそうすると、家事は自然と女にのしかかってしまいます。こまごまとした片づけを女の人がやるのが当たり前になってしまえば、わたしの娘も、そのように自分の夫を甘やかして家を切り盛りするかもしれない。

身だしなみやきちんとした所作は、あえて定義して押し付けずとも「女の子らしさ」に通じます。そして、身の回りの面倒を見たいという欲望...(わたしはそれを巣作り願望と言っていますが...)を、女自身が持つこともしばしばあるのではないでしょうか。

女の子がしばしば押し付けられがちな、「しとやかさ」という基準もそうです。人間は周りの人に配慮したり、意を汲んだりして社会的な生活を送ります。あの人は素直な人だ、という賞賛は必ずしもすべてにおいて開っぴろげであることを意味しません。誰もが自然に相手の感情を読み取り、自分の中にある感情を選択的に出しています。自分の欲望をすべてさらけ出し、相手にぶつけることは解だろうか。相手の気持ちを汲み取ったり、異変に気づいたりしない夫に、「わたしのようになれ」と強制することがいいのでしょうか。男性の無理解に対して「こんなことがわからないのか」と思いつつも、こちらの感じ方を伝える以外に、何か社会を変え、男女のあり方を変える強制力でもあるのでしょうか。

男女平等を目指す時代に、「女らしさ」を押し付けるべきではないというのはその通りです。でも男が変わるのには長い時間がかかります。それに、わたしが女としてやってきたことは放棄されるべきことなのだろうかというと、そうとも思えないのです。はっきりと意見を言うことと気を遣うことは、両立するはずだから――。そうでなければ、わたしはどちらの方向に行っても、なりたくない自分になるしかなくなってしまいます。

ママそんなの古いよ。そう言いつつ、軽やかな別の生き方があるのならどうぞ見つけてほしい。わたしには分からない解を娘が見つけてくれるのならば、そんなに嬉しいことはありません。もう40を超えたわたしは、できればこのままでシャンパンを山のようにあおりながら年老いていきたいけれども。

〈三浦瑠麗さん連載〉
子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

       
  • 新しく買ったワンピース

  • 軽井沢

  • 軽井沢

          
  • 浅草演芸ホール

  • 京都

  • オペラがはねた後のワインバーで。娘を夢中にさせた、ひらひらと揺れるミモザ色の大人用のワンピースを着て。

  • 軽井沢の家の庭に、この春桜の木を植えました。

  • 軽井沢の家で、母娘でごはんづくり。この日のメニューは、この日のメニューは、ヨーグルトチキンの炭火焼きでした。

  • 娘と出かけた、浅草演芸ホール。落語や漫才などの寄席も、楽しみました。

  • 着物で出かけた京都。いつもと違う時間でした。