仕立て下ろしの浴衣で落語。聴くことの意味、伝えることの喜び

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子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

名前
三浦瑠麗 / Lully Miura
家族
3人(11歳女の子)
所在地
東京都
お仕事
国際政治学者
URL
三浦瑠麗(@lullymiura) Instagram

子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

立川談春師匠の独演会を聴きに、夏休みの娘と一緒に相模大野まで行ってきました。蒸し風呂のような暑さの中でしたが、クーラーのよくきいた車で小一時間、大して歩くこともなく、夏芭蕉のしゃんとした生地と麻の長襦袢が涼しさを保ってくれました。娘は仕立て下ろしの白生地の浴衣。藍で染め抜いた檸檬の輪切りの模様が大胆に散っている一枚です。これは、娘がデパートで自分で選んだ反物を、これがおそらく最後となる肩上げをして大人の寸法で仕立てたもの。檸檬色の半幅帯を締めて、薄水色のレースの帯締めをして、はじめての「大人のきもの」が嬉しくて、歩き方までしとやかになっています。

装う、ということは洋の東西を問わず、相手に対するリスペクトを示すもの。もちろん自分のためでもあります。自己表現による自己定義というのでしょうかね。それが周りに受け入れられるものなのかどうかは、TPOによるものだと思われがちです。しかし、そのような一定の習わし、規則だけでなく、総合的なコミュニケーションの結果であることがさいきんどうも忘れられているように思います。わたし自身、常識を踏まえていなくて恥をかくことも多いのですが、そんなときは、先日亡くなった父方の祖母の言葉を思い出します。おさんどんをする彼女の後をついて回り、いろいろと話を聞いていると、一通りしきたりについて説明した後で決まってひとこと、こういうのです。「でもわたしが言ったとおりにする必要はないのよ。型を踏まえたうえで省略したり崩したりするのは構わないの。知っておくといいというだけなのよ」

嫁入り後、彼女の言う「恥をかいた」さまざまな経験について話しつつ、ほんとうにたくさんのことを教えてくれたはずなのに、わたしはとうとう型を十分に身につけないまま大人になってしまいました。姑がアメリカ人だったのをいいことに、何も勉強しないまま。これから娘に教える立場になって、俄か勉強もいいところです。しかし、知識は大切でも、やはりいまの風潮には憂慮すべきこともあると思うのです。「型」からの逸脱を、まるで定規を振りかざすかのように糾弾する人々を目にするから。そうしたやり方での伝統の尊重は、伝統というものが持つ力をかえって損なうような気がしてなりません。

世の中のしきたりやルールの多くは、相手への配慮とコミュニケーションのために作られてきたのだと思います。たとえばお中元一つとっても、ただ一定の金額の品を贈ればいいのではなくて、相手の好みを考えながら選びますよね。服装も、相手へのメッセージとして、あるいは場を盛り上げるための道具立てとして機能しているはずなのです。立てるべき相手は誰で、そして自分はどんな立場なのか。季節だって、会話の糸口にすぎません。すべてをSNSで済ますこともできる現代に、そういったものがすべて形骸化してしまえば、ルールは人間同士のコミュニケーションのためにはならず、単なる「苦」であり負担にしかならないでしょう。

今回の仕立て下ろしの浴衣は、娘にとって特別な一日を彩るものであり、そのような特別な機会をくださった師匠に対する礼儀なんだよ、と。娘にどうすれば適切な相手への配慮、すなわち忖度を教えることができるのかが、いまのところ母としてのわたしの課題です。

さて、本題の落語です。噺の枕で、談春さんは安倍元総理の暗殺事件に触れられていました。そして、東日本大震災の被災地を訪れた時のエピソードも。そんな枕のあとにかかった一つ目の落語は「猫定」、両国回向院にある猫塚の由来のおはなし。中入後は「人情八百屋」。いずれも人が死ぬ場面がある落語です。真剣な面持ちで聴き、ところどころ笑ったりぞくっとしたりして引き込まれている娘の横顔をちらちらと見ながら、あらためて連れてきてよかったと思いました。

残酷なことを語りで聴くというのは、むしろ子どもの頃から必要なことかもしれないと思います。人間の営みに昔からある、口伝え。口伝えは、鮮烈な映像にはない情報の補完作業を聴き手に要求します。しかも、その作業は比較的ゆっくりと時間をかけて行われるのです。その間、聴き手はさまざまなことを考えるでしょう。その場を離れても、消化作業はつづくかもしれません。

読むだけでない、聴くことの意味を、こうして落語を聴きに行くことで考えるようになりました。書き言葉と話し言葉で言えば、相手に伝えるのに最適なのは明らかに話し言葉です。人間は話されている内容だけでなく、声音や視覚に大きく反応するからです。一方で、書き言葉には話し言葉と違ってあまり多くの制限がありません。書き言葉は多くの場合、説明的であり、ふんだんな情景描写がある。論理構造を検め、改稿を重ねることもできる。極端な言い方をすれば、読み手に相当な負荷を強いることができるわけです。

つまり、書き言葉は、視覚的な情報の欠落を取り返すため、さまざまなことができてしまう。できてしまうことによって失われる表現方法というものも確実にある気がするのです。ある人が書いていた文章に、談春さんには独特のゆたかな「余白」があるというくだりがありました。この「余白」こそが、書き言葉にしばしば失われがちなものなのではないかという気がします。

人間の営みとこの世の不条理、欲望と残酷さ、無常とおかしみを伝えるには、具体と捨象の両方が必要になります。口伝えは初めに語られた話に次々と尾ひれがつくことからも分かるように、豊かな詳細を補完していくものであり、同時に以前あったシーンが飛ばされたりと、捨象されていくものでもあります。すべてについて話すことは不可能である以上、どこかで捨象しなければならない。何を語り、何を語らないか。英語で言うところのabstract(アブストラクト)とは抽象という意味ですが、「取り出す」という意味合いが含まれています。

何を本質と見るか。それは目の付け所により、いかようにでも解釈が可能です。しかし、落語の場合、演者にしか本質を取り出す作業はできない。談春さん著の『赤めだか』に師匠の談志さんから教わったこととして、「扇子をきっちり前に置いて、お辞儀は深々とすること」というエピソードがありましたが、この扇子は結界なのですよね。演者は本質を取り出す主体であり、客はそれを聴く側である。それこそ、扇子の結界によって示されている事柄なのだろうと思います。

多くの場合、良い文章は読み上げたくなるものです。そして、良い文章は読者に彼らの記憶の中にある風景と音を想起させ、それに新たな意味づけを与えます。わたしは文章における場面の切り替えに映像的な記憶を用いますが、それはわたしの心のなかにある風景であると同時に、多くの読者のもつ記憶とつながるものであると考えているからです。わたしたち人間は動物よりもはるかに複雑に思考することができますが、その想像力のもととなる素材は、過去と現在の人々の記憶と認識の中にしかないでしょう。文章にしても、落語にしても、その素材として語り継がれ、想起され続けるものとなることこそ、冥利につきるのです。

わたしたちは常に現実を見通せずに生きています。禍々しい凶事が起こったあとだからこそ、その行く手の頼りなさ、足元の暗さを今一度自覚することが大事なのであり、そんななかで談春さんの語りは人びとに大事なメッセージを伝える効果を持っていたと思います。

〈三浦瑠麗さん連載〉
子どもの未来をクリエイトする、国際政治学者の個性派子育て

       
  • 夏の食卓

  • 季節のごはん

  • 夏芭蕉のきもの

          
  • 檸檬の浴衣

  • 浴衣姿

  • 枝豆と味噌蒟蒻大根、そして地ビール。猛暑を乗り切るための、ある夕の食卓。

  • 夏らしい「とうもろこしごはん」を炊きました。この季節ならではの味ですね。

  • この季節だけ着ることができる、絹芭蕉の着物。沖縄に自生する糸芭蕉から作られた芭蕉布を、絹で再現した夏着物。セミの羽のように薄く軽やか。

  • 娘が自分で選んだ反物は、藍で染め抜いた檸檬の輪切りの模様。それを肩上げをして大人の寸法で浴衣に仕立てました。檸檬色の半幅帯、薄水色のレースの帯締めをして。

  • 浴衣を着付けを終えて。娘の振る舞いも、不思議としとやかに。