森も子どもも本来の力=余白を持たせるのが大事と気づいた卒業の季節
子どもが教えてくれる軽井沢森のくらし
- 名前
- 川上ミホ / Miho Kawakami
- 家族
- 3人(7歳の女の子)
- 所在地
- 長野県軽井沢
- お仕事
- 料理家、エッセイスト
- URL
- 川上ミホ オフィシャルHP
- URL1
- miho.kawakami.5
- URL2
- miho.kawakami.works
【子どもが教えてくれる軽井沢森のくらし】
森のくらし3月。
軽井沢の森での暮らしも、この春で丸3年を迎えました。
森ぐらしとしてはまだ新人レベル。
小さな焚き火や庭先サウナを楽しみつつ、薪割りやウッドデッキのメンテナンスを自分でできるようになったり、けれども突如現れるようになった森の先住人・タヌキにびっくりしたり、強風で地上15m地点から落ちてくるカラマツの太い枝に車を凹まされたりと、日々巻き起こる新たな事件にびっくり・ワクワクしながら毎日を送っています。
今回は、最近「同じだなぁ、おもしろいなぁ」と感じている「森」と「子ども」の「余白」についてお話ししたいと思います。
森のくらしと同時に始まった娘の学園生活も丸3年。
学園ではこの春、設立以来初の卒業生を送り出しました。卒業生といっても小学6年生ではなく、さらにその上の9年生。中学3年生にあたる子どもたちです。娘より8歳年上のお兄さん、お姉さん。
彼女の学校は同学年の活動とは別に、縦割りの「ホーム」というコミュニティがあります。朝や帰りの集い、それからちょこちょことイベントがあり、7歳から15歳までの異なる年齢の子たちのグループで、それはまさに兄弟姉妹の集まりのよう。
「ホーム」のミーティングは年上の子たちが場をリードしながらも、決して威張ったり年功序列的なところはなく、多数決でも強い主張が通るでもない、ゆるやかで新しい多様性・民主主義が存在すると言います(娘から聞いた話によると)。
だから、年齢の離れた9年生の卒業は、小学1年生の娘にとっても自分ごとであり、今年の3月は喜びと寂しさが入り混じった特別な季節になりました。
残念ながら仕事の都合により、わが家は参加できなかったのですが、卒業式は卒業生主導でプログラムが考えられ、入場は手作りのランウェイ。思い思いの衣装で登場する彼らはスタッフ、在校生と保護者(卒業生以外の学年の保護者も)から拍手と笑顔で迎えられ、全然学年が違うのに号泣している子どもや保護者やスタッフが多数だったとか。
理事長のしんさんも校長のゴリさんも涙で言葉につまり、その様子にみんな笑い泣くという涙と笑顔につつまれた温かい式だったと聞きました。
*設立前後から子どもたちを見守ってくださっている神戸大学の赤木先生のコラムにその様子が綴られています。
開校時、「いろいろ決まっていない学校ですよ」としんさんがおっしゃった通り、娘の学校は大人があらかじめすべてを決めたり用意したりしない、余白が多い環境です。
それは、子どもたちの自然な育ちや好奇心を大切にすることを掲げた学びの取り組みの一つで、決められていないことがたくさんあるために、子どもも大人も自分で考え行動するという機会をよく目にしました。試行錯誤の連続です。
話し合いにより何かをつくったり生み出したりする場面が非常に多いために、意見や思惑がぶつかることもあり、自由であるということはある意味難しいものだなと感じることもありました。
その中で、自分らしく生きることを実践し学び続けた子どもたちの旅立ちと、時に悩みながら子どもたちを信じ「余白」を守り続けた大人たちの晴れやかな涙に、「余白」を残すことのさじ加減と忍耐、信じることは大変なこともあるけれど、その価値は大きいことを感じたのでした。
実は、この生きる力を信じて余白をつくることは森にも通じるところがあります。
私は軽井沢に移り住んで、娘とともに自然環境への関心が高まったのを機に、森や環境保護の活動に参加したり、先人の知識に意識的に触れることを心がけるようになりました。以前は、「森を守る」ということは、「そっとして触らない」ことだと思っていました。
もちろん、天然林は自然の循環サイクル、淘汰をはじめとした自治システム(自浄作用)が備わっているので、人間が必要以上に干渉する必要はありません。ただ、環境保護、とくに森を守るということは、ただ伐らないということではなく(もちろん無計画な、単なる伐採は論外)、地球全体の一部として考えるべきであり、植物や土地の由来と向き合い、森林が本来持っている力を伸ばす余地=「余白」をつくることが大切だということを学んでいるところです。
地表に見えているものは全体の一部でしかない。土の中、水の流れ、風、空気のうねり、時間、あらゆる全体性の中で環境や森林について考える必要があり、きちんと向き合って見極めること。もちろん私が知っていると思っていることはまだまだほんの一部で、いろいろな考え方や方法があると思いますが、自然の力を信じる=余白を残すことが重要であることは共通しています。
わかっているような、わかっていないような、そして実践するためには自分が成長しないといけない現時点ではありますが、子どもも森も、本来持っている力を信じてやりすぎない=見守りつつ、それぞれが自発的に育つ余白を守ること、が大切なのだなと心に留める春なのでした。
〈川上ミホさん連載〉
子どもが教えてくれる軽井沢森のくらし